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サンタフェ (USS Santa Fe, CL-60) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の1隻。艦名はニューメキシコ州サンタフェに因む。 == 艦歴 == サンタフェは1941年6月7日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工した。1942年6月10日にキャロライン・T・チャベスによって命名、進水し、1942年11月24日に艦長ラッセル・S・バーキー大佐の指揮下就役した。 東海岸での整調後、サンタフェは太平洋に向けて出航、アリューシャン列島に向かう途中の1943年3月22日に真珠湾に到着した。アラスカ到着6日後の4月25日、サンタフェはアッツ島への砲撃を行う。その後4ヶ月にわたって日本軍へ対処するためアリューシャン列島の偵察巡航に従事した。7月6日および22日、上陸前の支援砲撃をキスカ島へ向けて行う。キスカ島への上陸は8月15日に行われた。サンタフェは8月25日にアリューシャン列島を出航し、9月1日に真珠湾に到着した。 サンタフェのその後の戦時任務は第13巡洋艦隊で高速空母任務群と共に行われた。部隊は太平洋を横切り、連合軍の進出の魁となった。サンタフェは最初に真珠湾から2度の空母部隊による攻撃の護衛を担当した。1つは9月18日、19日にタラワ島に対して行われ、もう一つは10月5日、6日にウェーク島に対して行われた。ウェーク島に対する艦砲射撃では、海岸からの反撃は沈黙した。 サンタフェは10月21日に空母部隊と共に真珠湾を出航したが、ブーゲンビル島への補充部隊を輸送する船団護衛任務のため部隊から分離した。11月7日に到着し、続く2日間は敵機による激しい航空攻撃を退けた。短期間の停泊後、11月14日にエスピリトゥサント島に向けて出航、ギルバート諸島に向かう船団護衛を行い、11月20日から22日まで地上部隊の支援としてタラワ島への砲撃を行った。11月26日、サンタフェは再び高速空母部隊と合流し、12月4日にクェゼリン環礁に対して攻撃を行う3隻の航空母艦を護衛、その5日後に真珠湾に帰還した。 同年末、サンタフェは帰国し1944年の最初の週はカリフォルニア州サンペドロ沖合での揚陸訓練に従事した。1月13日に出航し任務部隊と共にマーシャル諸島に向かう。29日にはウォッジェ環礁で上陸前の砲撃を行う。翌30日の午後にサンタフェはクェゼリン環礁沖合で主力部隊と合流し、31日と2月1日は上陸部隊の支援射撃を行った。サンタフェは2月7日にマジュロ環礁に到着した。 5日後、サンタフェはトラック島攻撃を行う高速空母部隊と共に出撃し、2月16日および17日に同島を攻撃、22日にサイパンを攻撃した。その後マジュロを経由してエスピリトゥサント島に向かう。3月15日に再び出航し、エンタープライズ (''USS Enterprise, CV-6'') およびベロー・ウッド (''USS Belleau Wood, CV-24'') の護衛を担当した。2隻の空母は3月20日にエミラウ島への上陸支援および3月30日から4月1日にかけてパラオ、ヤップ、ウォレアイ環礁への攻撃を行った。4月13日、サンタフェはホーネット任務群と共に出航し、ニューギニアのホーランディア侵攻支援を担当した。21日にはワクデ島およびサマール島への航空攻撃が行われ、翌日には上陸支援のため水上艦艇による艦砲射撃が行われた。上陸支援任務は4月28日に解除され、空母部隊は29日および5月1日にトラック島、サタワン島、ポナペ島を攻撃、4日にクェゼリン環礁に帰還した。 サンタフェはバンカー・ヒル任務群と共にマーシャル諸島を出撃し、サイパン島上陸支援のためサイパン、ティニアン、グアムに航空攻撃を行う空母の護衛を6月11日から16日まで行った。しかしながらマリアナ諸島防衛のため日本艦隊は同海域に急行した。6月19日の朝、日本軍の空母艦載機部隊は第5艦隊を攻撃した。サンタフェの艦砲はアメリカ軍機が日本軍機と交戦する間、空母の護衛として寄与した。夜の間から翌朝にかけて第5艦隊は交代する敵艦を追撃し、午後には捕捉した。同夜サンタフェは、日本の潜水艦による攻撃の可能性を無視して、艦載機部隊が空母に着艦するのを誘導するための照明を照射した。6月24日のパガン島に対する攻撃後、部隊は補給のため27日にエニウェトク環礁に帰還した。 3日後、サンタフェはホーネット任務群と再合流し、7月4日午前の攻撃後、硫黄島に対する艦砲射撃を行った。7月6日から21日まで空母部隊はグアムとロタ島の日本軍飛行場に対して交互に攻撃を行う。25日から28日にかけてはヤップ島とウルシー環礁に対して攻撃を行い、その間に海軍機による貴重な写真撮影が行われた。8月2日にサイパンで6時間停泊した後、部隊は再び出航し、スカベンジャー作戦の名で4日と5日に硫黄島を攻撃する。4日の攻撃でサンタフェは日本軍の第4804船団と遭遇、駆逐艦松を含む数隻を撃沈した。5日には硫黄島へ砲撃を行い、部隊は11日にエニウェトクに帰還した。 1944年8月30日から1945年1月26日までサンタフェはエセックス (''USS Essex, CV-9'') を中心とした空母部隊と共に作戦活動に従事した。部隊の最初の任務は9月6日から8日にかけて行われたパラオのペリリュー島に対する攻撃と、9日および10日に行われたミンダナオ島への攻撃であった。9日の攻撃でサンタフェは再び日本軍の船団と遭遇、数隻の小艦艇を沈める。 サンタフェは2月10日にヨークタウン (''USS Yorktown, CV-10'') および他の僚艦と共に出航した。2月16日および17日、部隊は関東地方の飛行場に対する攻撃を行い、硫黄島上陸の障害となる航空機を破壊した。サンタフェは18日に空母部隊から分離し、2月19日から21日にかけて硫黄島へ砲撃を行った。摺鉢山の砲台は沈黙し、サンタフェは夜間には照明弾を発射した。その後再び空母部隊と合流、25日に東京への空襲を行い、3月1日にウルシー環礁へ帰還した。 3月14日にサンタフェはハンコック任務群と合流する。部隊は九州への攻撃を3月18日に開始し、19日には呉および神戸の日本艦隊を攻撃した。19日の戦闘では、1機の日本軍機がフランクリン (''USS Franklin, CV-13'') の飛行甲板に2個の爆弾を投下した。フランクリンは炎上し、サンタフェはフランクリンの乗員を救助するため支援を行った。およそ3時間の並走で、833名が救助された。フランクリンの火災は鎮火し、ピッツバーグ (''USS Pittsburgh, CA-72'') に牽引されてウルシー環礁へ帰還した。サンタフェはフランクリンを護衛したものの、自らの修理も必要であったため3月27日にウルシー環礁を出航し、フランクリンを真珠湾に護衛した後帰国の途に就いた。サンタフェはフランクリン援護の功績で海軍殊勲部隊章を受章した。 サンペドロでのオーバーホールは4月10日から7月14日まで行われた。サンタフェは8月1日に真珠湾へ戻り、12日に空母アンティータム (''USS Antietam, CV-36'') 、軽巡洋艦バーミングハム (''USS Birmingham, CL-62'') と共にウェーク島への攻撃に向かう。8月15日に日本が降伏したことで、攻撃はキャンセルされた。その後サンタフェはエニウェトク環礁に向かい、続いて沖縄に移動、8月26日に中城湾に停泊する。サンタフェは9月20日に佐世保に到着し、10月17日から11月10日まで本州北部および北海道での占領支援任務に従事した。サンタフェは11月10日にマジック・カーペット作戦に参加し、サイパン、グアム、トラック島から2度の兵員輸送を行う。サンタフェは1946年1月25日にワシントン州ブレマートンに到着した。 サンタフェは1946年10月19日に退役し、太平洋予備役艦隊ブレマートン・グループで保管された。その後1959年3月1日に除籍され、1959年11月9日にスクラップとしてジデル・エクスプロレイションズ社に売却された。 サンタフェは第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サンタフェ (軽巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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